スコットランドの巨星墜つ
一番好きな映画は何かと聞かれたら、ボンドシリーズの「ロシアより愛を込めて」と答えるかも知れません。
その位、この映画は傑作でした。
英国諜報部員として働くボンドが、当時、東西冷戦の最前線であったイスタンブールで東側スパイと戦い、ソ連大使館で働く女性と恋に落ちるという筋書きも良かったですが、主人公として登場するジェームズ ボンドの超人的な活躍は本当に胸躍らせるものでした。
東西冷戦の終焉は、世界に平和をもたらしましたが、スパイ小説の前提条件である東西の緊張関係が消失してしまった事は、ちょっぴり残念な出来事でありました。
私の好きなイアンフ レミングやケン フォレット、フレデリック フォーサイスといった作家のスパイ小説は、一つ間違って東側の手に落ちれば、闇から闇に葬り去られるという緊張感が無ければ成り立たないからです。
イアン フレミングは多くのスパイ小説を残した作家ですが、彼の商業的成功はなんと言っても、ボンドシリーズが映画化された事が一番の理由だと思います。
先日、初代ボンドを務めたショーン コネリーさんが亡くなられました。90歳でした。
彼が亡くなったのがハバナと聞いて、ボンドらしいなと思いました。
ボンドシリーズをご覧になった方はご存知と思いますが、ボンドは良くハバナに出かけ、浜辺で敵国の女スパイとカクテルを片手に軽妙な会話を楽しんでいました。
彼は死ぬまでボンドを演じていたのでしょうか。
あれだけボンドのイメージが強いと、他の役を演じるのが難しくなるはずですが、コネリーさんは見事に克服し、ボンド役を辞めた後も、数々の名作を残しました。
コミカルな初老の役をやらせても、英国流のウィットの効いた演技で楽しませてくれました。
そんなコネリーさんの追悼記事が沢山出されていますが、今日は、BBCの記事の中から一部抜粋してご紹介しましょう。
BBC記事抜粋
小説の中でジェームズ ボンドは、イートン校(チャーチルなどを輩出した英国のエリート校)を出たことになっていますが、コネリーの出自は全く違うものでした。
彼はスコットランドのエジンバラで工場労働者と家政婦の間に生まれ、お湯が出ないトイレも共用の長屋で育ちました。
彼は13歳で学校を中退し、牛乳配達やレンガ積みなどをした後、軍隊に入隊しました。
除隊後、彼はボディビルに励み、ロンドンでミスターユニバース大会に参加しています。
その後、エキストラとして舞台にデビューし、徐々にキャリアを積み重ねました。その後、大きなチャンスが訪れます。
初代ボンドとしてはケーリーグラントやリチャードバートンも候補として検討されましたが、コネリーを強く推したのはプロデューサーのブロッコリ氏の奥さんでした。
彼には女性を引きつける磁力とセクシーな魅力があると主張したそうです。
監督のテレンス ヤングは、コネリーを高級なレストランやカジノに連れて行き、振る舞い方を教えました。こうやって知的で洗練されたボンドが誕生したのです。
彼は常にハリウッドのライフスタイルを嫌い、スペイン、ポルトガル、カリブ海の自宅で、モロッコで出会った2番目の妻であるミケリン ロクブルーンとゴルフをすることを好みました。
愛国者としてのコネリー
彼の俳優以外の顔としてはスコットランド独立運動の支援者というものがあります。
彼は英国の映画産業に多大な貢献をした事から、早期に爵位を授けられるものと思われていましたが、なかなか授与されませんでした。
理由は当時の英国政権がスコットランドの独立に反対していたからです。
ようやく労働党政権の時代に、彼に爵位が与えられましたが、女王から爵位を頂く記念式典に、彼はスコットランドの民族衣装キルトを着て出かけたそうです。
その様な信念の持ち主であると同時に、彼は本当に偉大なスターだったと思います。
今に繋がるアクション映画の始まりはボンドシリーズと言っても良いのでははないかと思います。
彼の名セリフ「Vodka Martini, Shaken, not stirred」(ウオッカ マティーニをステアせずにシェイクで)は私も使わせて頂きましたが、彼のファッションや趣味など全てが世界中の男性に大きな影響を与えたと思います。
ご冥福をお祈りします。
最後まで読んで頂き、有り難うございました。