ガリポリの戦い
イスタンブールで暮らした頃、ボスポラス海峡は身近な存在でした。
長さ約30キロもある海峡ですが、幅が狭いところは800メートルしかありません。
黒海とマルマラ海を繋ぐこの天然の海峡は古くから交通の要衝として注目されていました。
ローマ帝国が当時のコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に遷都したのも、この地の持つ戦略的な価値に着目したからに違いありません。
黒海からエーゲ海に抜けるにはボスポラス海峡ともう一つダーダネルスという海峡を通る必要があります。
第一次世界大戦末期、当時海軍大臣だったチャーチル(後に首相)が立案を行ったガリポリの戦い(トルコではチャナッカレの戦いと呼ぶ)は、この海峡において行われました。
トルコと英国、豪州、ニュージーランドの連合軍の間で戦われた戦いは、連合軍の敗退で終わりました。
この戦いは第一次世界大戦中の英軍の最大の敗戦として数えられています。
この敗戦はチャーチルの血気にはやった失策として記憶されていましたが、最近の分析ではどうも彼だけの責任ではなさそうです。
米誌Foreign Policyが「The Real Reason Britain Gambled at Gallipoli」(ガリポリの戦いに賭けた英国の真の理由)と題した論文を掲載しました。かいつまんでご紹介したいと思います。
Foreign Policy記事要約
悲惨なガリポリの敗戦で果たした役割のために1915年に英国海軍本部から追い出されて以来、チャーチルは、第一次世界大戦での英国の最悪の敗北の1つである作戦を首謀したことで非難されてきました。
今日のトルコのガリポリ半島の海岸でトルコ軍の猛反撃を受けたオーストラリア人とニュージーランド人にとって、この戦いその中で果たしたチャーチルの役割は、苦い記憶として残っています。
第二次世界大戦中も、チャーチルに対するオーストラリアの怨嗟は、オーストラリア軍を大英帝国ではなく自国のために戦わせるとして、彼らを母国に連れて帰る決断をさせました。
しかし、「The War Lords and the Gallipoli Disaster」の著者のニコラス・ランバートは、致命的な大失敗はチャーチルだけの責任ではないし、西部戦線の膠着状態から逃れるための代替手段ではなかったと主張しています。
むしろ、ガリポリは小麦に関する戦いでした。
より具体的には、ロシアの小麦が関連しています。
それはロシアが戦争にとどまるため輸出して外貨を稼ぐ必要があったものですが、高騰する価格と希少性の恐れから英国の指導者が切実に必要と感じた物でもありました。
オスマン帝国が1914年後半にドイツとオーストリア・ハンガリー同盟に加わって以来、オスマン帝国が支配するトルコ海峡(ボスポラス海峡及びダーダネルス海峡)は閉鎖されていました。
戦前の数年間に世界市場(そして英国)への小麦の最大の供給者の1つとなったロシア帝国は、突然、出口なしで立ち往生しました。
1915年の初めまでに、それは英国の指導者たちはほとんどの食料を輸入する必要性を痛感していました。
世界の海運は、戦争のために公海をほとんど放棄していました。
北米、南米、インドでは不作が迫っているようでした。
小麦の危機が迫っていました。
そしてそれらは、完全な飢饉ではないにしても、英国に大きな社会的および政治的混乱を引き起こす可能性がありました。
1914年の秋以来、近東での作戦のために、英国政府では様々なアイデアが検討されました。
しかし、1915年1月に英国政府がアスキス首相自身を議長とする食品価格委員会を結成するまで、何も具体化しませんでした(ジョン・メイナード・ケインズという非常に若い財務省職員の支援を受けて)。
ランバートはこの時初めて、政府が「戦争戦略と食糧問題」を総合的に検討したと書いています。
食糧問題は金銭に関する問題でもありました。
ロシアは大規模な融資を英国から受けていました。ロシアが軍需品を輸入する余裕がない場合、ドイツとの間に和平を結ぶのではないかという懸念がありました。
ロシアが輸出しなければならなかったのは小麦であり、その小麦は黒海とトルコの海峡を通って出荷される必要がありました。
ロシアの財政難に取り組み、小麦不足を緩和し、英国の街路で暴動をかわすことができる唯一の選択肢は、英国の目から見て、ダーダネルス海峡を開くことでした。
内閣は、1月末までに最終的に決定しました。
「アスキスは、戦争内閣が直面した2つの別々の主要な問題、つまり、どこで戦うか、そしてどのように食料価格の上昇と戦うかを認識していたようです」とランバートは書いています。
「彼は、食料価格に対する社会的および政治的不安を回避するための他のどの選択肢よりもダーダネルス海峡を襲撃する方が「簡単」かつ「はるかに安価」であると、作戦の魅力を表明した。」と述べています。
ランバートの著作の魅力は、19世紀後半のグローバリゼーションの問題点を教えてくれている点です。
グローバリゼーションによって可能になった低価格は、戦略的脆弱性を拡大しました。
貿易戦争、関税、サプライチェーンの混乱、世界的な商取引の繊細な歯車を破壊するパンデミック、あるいは最近のスエズ運河の閉鎖でさえ、グローバリゼーションが如何に諸刃の剣であるかを現代の指導者たちに思い出させてくれています
グローバリゼーションの問題点
ガリポリの戦いはロシアの小麦に依存していた事から英国が起こした戦いだったとは興味深いですね。
当時既にグローバリゼーションは始まっており、経済面で英国とロシアは緊密な繋がりを持っていた訳です。
先日スエズ運河で座礁した大型コンテナ船は2万個ものコンテナを運んでいました。
現在のグローバリゼーションの度合いは、第一次世界大戦の頃とは比較になりません。
今、私が身につけている衣服のほとんどは日本製ではありません。
ユニクロの製品のほとんどは中国やバングラデシュといった安価な労働力がある国で生産されています。
確かにグローバリゼーションはユニクロの様な安価な服を消費者に提供してくれました。
その一方で、国内の繊維産業は没落し、多くの国内メーカーが廃業を余儀なくされています。
グローバリゼーションは確かに価格の面では、消費者にメリットを提供してくれましたが、国内産業の空洞化やサプライチェーンの脆弱性といった問題を提示しています。
グローバリゼーションにはメリットもありますが、デメリットもあります。
「多少高くても日本製を」と考える人が今後増えてくるかも知れません。
最後まで読んで頂き、有り難うございました。