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東南アジアに広がる「ミルクティ同盟」とは

 

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タイの俳優のツイッターから始まった運動

ネット上で「ミルクティ同盟」という民主主義者の運動が高まっている様です。

そもそも政治運動になぜミルクティという名前を付けたのでしょうか。

この問いについて英誌Economistが「Milk tea’s colonial roots make it a surprising symbol for activists」(ミルクティーの植民地時代のルーツは、活動家にとって驚くべきシンボルとなっている)と題した記事を掲載しました。

かいつまんでご紹介したいと思います。

Economist記事要約

タイの人気俳優、ワチラウィット・チヴァーリーが。昨年ツイッターに「4カ国」というキャプションを付けて街並みの写真を4枚投稿した時、彼は自分が何をしようとしているのか認識していました。

彼が挙げた4つのうちの1つは香港でした。

香港は、中国内での特別な地位にもかかわらず、独立した国ではありませんので、中国の民族主義者がこの投稿にすぐさま噛み付きました。

香港と台湾の民主化運動家は、中国からの一斉射撃にさらされたチヴァーリーの防衛にまわりました。

彼らの反応の中にはミーム(人々の心から心へ伝えられる情報)がありました。

その漫画の中で、香港、台湾、タイからの乳白色の飲み物が、あらゆる形態の権威主義政府に対して連帯して「手をつないで」います。

象徴性は明らかです。

東南アジアの人々はお茶とコーヒーをミルクと一緒に飲むのに対し、中国人はお茶に乳製品を混ぜません。

ミームは政治的な運動、ミルクティー同盟になりました。

そのメンバーは、インターネットファイアウォールをかわし、逮捕を回避するためのヒントを交換します。

このグループには、中国共産党の迫り来る影を憂慮する香港人と台湾人が含まれています(中国は台湾をいつか埋め立てられる反逆の州と見なしています)。

また、2月のミャンマーにおける軍事クーデターに反対して、国の軍政に批判的なタイ人とミャンマーの民主化運動家を団結させています。

Twitterが4月に新しいミルクティー絵文字を発表した時、運動は後押しされ、ミルクティーミームを普及させました。

 

しかし、ミルクティーが現在象徴するものは、飲み物の複雑な過去とは別物です。

ミルクティー同盟の名前は、中国がミルクを避ける国であるという考えに由来しています。

しかし、これは「事実とは異なります」と、ミシガン大学の歴史家であるミランダ・ブラウンは言います。

一部の中国人は何世紀にもわたってお茶に乳製品を加えていました。

12世紀に、陸游と呼ばれる詩人は、彼がバターを加えたお茶を好んでいる事について書きました。

17世紀に中国と交易していたオランダ、イギリス、フランスの商人たちは、お茶と乳製品の組み合わせがとても美味しいとして、持ち帰りました。

数世紀後、ヨーロッパ人はミルクティーの概念を彼らの植民地に輸出しました。

 

では、中国はいかにしてミルクを避けているという評判を得る様になったのでしょうか。

19世紀と20世紀、ほとんどの中国人は貧しくて牛乳を買う余裕がなかったとブラウン氏は言います。

毛沢東の死後、牛乳を飲むことは中国共産党の進歩の象徴となりました。

2006年、当時中国の首相だった温家宝は、「すべての中国人、特に子供たちに毎日十分な量のミルクを提供する事が夢である。」と宣言しました。

中国でメラニンが混入したミルクを飲んだ6人の赤ちゃんが亡くなった事から2008年にこの夢はかなり傷つきました。

スキャンダルと隠蔽は、飲み物に対する消費者の信頼を破壊しました。

10年以上経った今でも、多くの裕福な中国の消費者は欧米の生産者から輸入品を購入しています。

 

しかし、中国でのミルクの売り上げはやがて回復しました。

市場調査会社のEuromonitorによると、中国の乳製品市場はまもなくアメリカよりも大きくなるでしょう(インドは依然として他のどの国よりも多くのミルクを飲んでいます)。

中国では、小さくて歯ごたえのあるタピオカが入った台湾のタピオカティーが、今では最も人気のある乳白色の飲み物であり、特に若くてトレンディな都会人に愛されています。

 

ミルクティー同盟の名称の欠陥は、この地域の歴史をさらに掘り下げるとさらに明らかになります。

東南アジアは、常にミルク愛好家の地域であるとは限りません。

20世紀以前は、ほとんど乳製品がありませんでした。

インドの酪農家は、この状況をチャンスと見て、東南アジアに進出して牛乳配達人としての地位を確立しました。

しかし、インド人のミルクは、汚れた水で希釈されたため、すぐに安全ではないという評判が高まりました。

状況は19世紀後半に、冷蔵を必要としない缶詰の練乳の発明によって変わりました。

植民地の新しい市場でネスレなどのヨーロッパの生産者がこの製品で大儲けしました。

彼らは、新鮮なものよりも栄養価が高く、健康的だと安全な缶詰ミルクを宣伝しました。

広告は、ネスレが「進歩の精神」と呼んだものを呼び起こしました。

ブリキ缶は、機械時代の製品である新しい技術でした。

練乳を飲むことは、マレー人、ベトナム人、ビルマ人にとって流行になりました。

1930年代までに、マラヤで飲まれた練乳の半分は、安くて苦い紅茶とともに消費されました。

ある学者が言ったように、練乳は「植民地を征服する」ようになりました。

 

ミルクティーの歴史は、反権威主義活動家にとって奇妙な象徴であると言う人もいるかもしれません。

他の人は、そんな事気にする必要ないと言うかもしれません。

お茶がアヘン戦争を引き起こした

お茶というのは単なる嗜好品と思われるかも知れませんが、世界中で飲まれている量は半端なものではありません。

お茶の歴史をひもとけば、面白い事実が発見できます。

19世紀初め中国から当時世界最大の帝国を誇った英国への輸出が急激に高まります。

お茶といえば英国の上流階級が嗜む高級品というイメージが強いかも知れませんが、当時の英国は産業革命の真っ只中、工員に長時間労働をさせるためにお茶に大量の砂糖を混ぜて気付け薬として飲ませていた様です。

お茶の大量輸入は英国から大量の銀の流出を引き起こします。

困った英国政府は、インドに英国の綿製品を買わせ、インドから中国にアヘンを輸出させ、中国から本国にお茶を輸入させるという三角貿易を考えつきました。

これが有名なアヘン戦争を引き起こす訳ですが、この話にはおまけがあって、当時中国が国家機密として輸出を禁じていたお茶の苗を英国は盗み出し、植民地であるインドに移植しています。

れが今、高級茶で有名なダージリンティーの始まりです。

当時の英国はアヘンを売りつけて戦争を起こすは、お茶の苗木は盗み出すはでまさにやりたい放題ですね。(この点では、中国が当時の英国を批判するのは理解できます。)

ところで、今回の東南アジアのミルクティ連合うまく行くでしょうか。

米国にも「ティーパーティ運動」という政治的な運動がありましたが、それは保守派ポピュリストの運動でした。

お茶はどうやら政治に結びつきたがる傾向がある様です。

 

最後まで読んで頂き、有り難うございました。