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岸田首相が密かに狙うリベラルの復権

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宏池会の復権

岸田首相が所属する宏池会は池田勇人元首相によって創設された自民党の名門派閥です。

自民党の中ではリベラル、ハト派と称されるこの派閥は、長い間首相を出す事ができませんでした。

岸田首相の前は宮澤喜一氏までさかのぼります。

宮沢氏の首相就任は1991年ですから、宏池会は30年にわたって総裁を出す事ができなかった訳です。

今回総理に就任した岸田氏はその選出の過程で、自民党内の保守派特に安倍元首相に妥協し、首相就任後も安倍首相の強い影響下におかれるのではと批判する声があります。

この点について米誌Foreign Policyが「Fumio Kishida’s Principles Are About to Be Put to the Test - Japan’s new prime minister is the moderate face of a party dominated by its right wing.」(​​​​岸田文雄の原則が試されようとしている - 日本の新首相は、右翼が支配する党の穏健な顔である。)と題した論文を掲載しました。

岸田氏の政治的スタンスを良く分析した内容だと思いますので、かいつまんでご紹介したいと思います。

Foreign Policy論文要約

岸田首相は、2017年に外相から政調会長に横滑りした時、当時の安倍首相から距離を置こうとしました。

「安倍首相と私は個人的に非常に親密です。しかし、政治家としての私たちの哲学と信念についてはっきりと話すなら、首相は保守的です、あえて私はタカ派と言います。私はリベラルでハト派です。」

 

岸田氏はかつて安倍首相との対立を考えていましたが、最終的には、日本の軍事力の強化、中国への厳しい方針、憲法の改正など、重要な問題について保守的な立場を受け入れる事にしました。

これらの妥協を純粋に日和見主義として却下することは簡単です。

しかし、岸田文雄の台頭は、冷戦終結以来、党が右シフトした結果、党の穏健派がタカ派と和平を図らなければ実現しませんでした。

 

冷戦時代、自民党は主に反共産主義を中心に団結した党派でした。

党は事実上、日本のいわゆる平和憲法を公布し、米国との不平等な安全保障同盟を受け入れた吉田茂の信者と安倍首相の祖父岸信介ら日本を再武装しようとする右翼とに二分されていました。

 

1990年代初頭までに、この不安定な共存は崩壊しました。

反共産主義はもはや接着剤として機能せず、汚職スキャンダルと「失われた10年」の始まりは党の信用を失墜させ、自民党は分裂させました。

1993年に一時的に権力を失い、党は大きく混乱しました。

 

この混乱をきっかけに、自民党の右翼は党の支配を求めました。

冷戦時代「反主流」と呼ばれていた右翼政治家は権力を蓄積し、2012年から2020年までの安倍首相の記録的な任期が示す通り、党を実質的に支配してきました。

そして、党内リベラル派は、反主流になりました。

岸田氏の経歴は、このリベラル派の長期的な衰退と完全に一致しています。

 

 1957年に広島で生まれましたが、広島は岸田の政治的アイデンティティにとって重要です。

日本の反軍国主義の象徴的な土地であるだけでなく、宏池会の創設者である池田勇人を輩出した様に、自民党のリベラル派の中心でもあります。

岸信介が米国との新たな安全保障条約を厳しく追求した事に反発し、政府を倒そうとする抗議行動が引き起こされた後、池田は1960年に首相に就任しました。

池田氏は、「寛容と忍耐」の政治を追求し、高度経済成長の促進に焦点を当てることで対応しました。

これは彼の派閥の基本原則になりました。

 

岸田家は、1978年に文雄の父が広島から宏池会の議員として立候補した時から、この伝統に引き込まれました。

父親が1992年に亡くなった後、彼が国会に立候補したときに彼も宏池会に加わることに疑問の余地はありませんでした。

1993年の岸田文雄の選挙は、父の親戚である宮澤喜一政権の終了と共に行われましたが、宮澤氏は岸田首相が誕生するまで宏池会から選出された最後の自民党首相でした。

宏池会は衰退し、何度も分裂しました。

その過程で岸田氏は若手議員として党内クーデターである「加藤の乱」にも参加しました。

派閥が崩壊するのを見た後、彼は、右翼に直接対立することは不幸な結果をもたらすことを学びました。

代わりに、彼は静かに党、内閣で主要ポストと専門知識を獲得しました。

その間、岸田は右翼の保守派が支配する党で自民党のリベラル派が果たすことができる役割を明確にしようとしました。

岸田氏にとって、自民党の自由主義は基本的には政策ではなく政治的なスタイルです。

彼は彼自身の派閥の歴史を利用して、それがどのような役割を果たすことができるかについてのビジョンを提供しました。

 

まず第一に、何よりも現実主義者であると主張しました。

「我々のグループの特徴の1つは、戦後の政治では特定のイデオロギーや原則にとらわれず、代わりに非常に現実的な政策に基づいて物事を考えたということです」と彼は2015年の議会討論で述べました。

軍事力よりも経済成長への投資を優先する、米国と同盟を結んだ軽武装の日本である宏池会に関連するようになった政策は、永遠の真実ではなく、特定の条件への対応でした。

どのポリシーが適切であるかは、時間の経過とともに変化する可能性があり、変化するはずです。

 

第二に、岸田は、自民党のリベラル派はバランスをとるための力であるべきだと主張しました。

たとえば、2005年に支持者に宛てた新年の手紙の中で、彼は党が「強力なリーダーシップ、米国中心の外交をタカ派が強調している」ことを認めましたが、彼は次の警告を付け加えました。

「私はこれらの重要性を否定していませんが、バランスが鍵であると信じています。」

 

最後に、岸田氏によれば、日本の指導者は謙虚に行動し、権力を乱用しないように注意し、様々な人々の考えを受け入れ、国民の同意を確保しなければならない。

自民党総裁選において、彼はそれがすべて聞くことに帰着したと主張しました。

人の話を聞くことが信頼の出発点だと思います」と彼は言いました。

この信念は、政策に対する国民の反対に直面したときに、自分のアプローチが最善である理由を再度説明する必要性を強調する安倍首相とは著しく対照的です。

 

結局、岸田氏は、これらの原則がなければ、日本は直面する深刻な課題を克服することはできないと信じています。

「私たちの将来には想像を絶する混乱と国家危機が待ち受けています」と彼は2020年に書いています。

それは国民の協力なしには成し遂げられません。

そして、政治への信頼を取り戻さずに国民に協力を求めることはできない」と語りました。

 

岸田にとって、これらの信念は、党の支配のために自民党の右翼と戦うのではなく、自民党の右翼と協力する方法を見つけることを正当化しました。

彼は今でも右翼によって支配されている党の穏健な顔です。

 

今後、岸田の原則が試されます。

彼は、より謙虚なスタイルの政治へのコミットメントと保守的な同盟国の要求の間で板挟みになる可能性があります。

ある時点で、国防費、憲法改正、中国と台湾の関係のバランスをとる方法など、国民または自民党の権利を疎外する可能性のあリスクの高い決定を下さなければならない可能性があります。

その瞬間、岸田文雄は自民党が冷戦の痕跡に過ぎないのか、それとも日本を激動の未来に導く上で重要な役割を果たすのかを明らかにします。

静かに安倍さんとの距離を置こうとする新首相

岸田新首相の今回の党、内閣人事に安倍氏は不満を漏らしている様です。

岸田氏は安倍氏の影響力は十分認識しつつも、徐々に安倍氏と距離を置き、自分のよりリベラルな政策を行おうと考えている様に思えます。

彼が打ち出した新自由経済主義からの脱却分配の重視と言った政策は安倍氏の政策の否定にも繋がりかねない内容です。

安倍氏との決定的な対立は避けつつ、国民の支持を得ながら、徐々に岸田カラーを出していく作戦と思います。

バランス感覚を重視する岸田氏ですが、日本は今後国難に直面して根本的な改革を行う必要があります。

その場合、新首相が本当に思い切った決断ができるか未だ分かりませんが、お公家集団と言われた宏池会を戦う集団に変貌させた岸田氏は、外見とは違い意外にしたたかさを持った人物かも知れません。

今後に注目しましょう。

 

最後まで読んで頂き、有り難うございました。