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パキスタンの「原爆の父」が原子爆弾を売ろうとした顧客リスト

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核拡散に努めた原爆の父

パキスタンの「原爆の父」と言われるカーン博士が85歳で亡くなりました。

パキスタンの原爆開発に主要な役割を果たした同博士は、北朝鮮などに原子爆弾製造ノウハウを売った事でも知られています。

同氏の死について英誌Economistが「Obituary: A.Q. Khan was the world’s biggest nuclear proliferator」(​​​​死亡記事:核拡散に最も貢献したカーン博士)と題した記事を掲載しました。

かいつまんでご紹介したいと思います。

Economist記事要約

インドが1974年にラジャスタンの砂漠で核爆弾を発射した時、オランダに滞在中の若いパキスタンの冶金学者は国への奉仕を志願する準備ができていました。

数か月後、カーン博士は、ウランを遠心分離機で回転させて爆弾に使用する方法をパキスタンのブット首相に説明しました。

10年も経たずして、パキスタンは核兵器を製造し、テストを行うに至りました。

 

縫い針、良い自転車、耐久性のある道路さえも作ることができなかった国が、最新かつ最も困難な技術の1つに着手したとカーン博士は後年追想しました。

ブット首相は書き綴った日記で次の様に問いかけました。「キリスト教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒が爆弾を持っているのに、なぜイスラム文教徒が持てないのか?」

 

カーン博士は1936年に当時のイギリス領インドのボパールで生まれました。

ほぼ半世紀後、この都市は、16,000人以上が死亡したと言われているユニオン カーバイド工場でのガス漏れで知られるようになりました。

しかし、それはイスラム教徒とヒンズー教徒が何世紀にもわたって共存していた平和な都市でした。

彼の父親は教師であり、7人の子供を持つ礼儀正しい平和を愛する男であり、息子たちが鳥を撃つ事さえ禁じていました。

博士が生まれる1年前に、カーンの父親は引退し、パキスタンを独立したイスラム教国として創設する運動で重要な役割を果たす組織である全インドムスリム連盟に専念しました。

彼の両親は彼を早く学校に通わせるために彼の生年月日について虚偽申告しましたが、彼は優秀というよりは勤勉な学生でした。

パキスタンがインドから分離された際、家族はボパールにとどまりましたが、都市のイスラム教徒がますます嫌がらせを受けるようになると、彼らは去り始めました。

高校を卒業した16歳の時、愛するムガル帝国の歴史と、兄からの卒業式の贈り物である金のペンを持ってインドに向かいました。

この移動中にインドの警察によって脅迫を受け、警察官は彼のペンを盗みました。

 

彼は1975年に遠心分離機の設計図とそのコンポーネントを供給した会社の詳細を盗んでオランダを離れたとき、何年も監視下に置かれました。

その後、パキスタンに核のノウハウを提供した後、彼はこの情報を先ずイランに、後に北朝鮮リビアに販売するために企業ネットワークを設立しました。(北朝鮮は見返りにパキスタンにミサイル技術を提供しました。)

彼は中国の爆弾のデザインを数千万ドルでリビアに売り、それをイラクにも提供しました。

パキスタンの国家会計局による調査では、彼がいくつかの家を所有し、パキスタン、スイス、アラブ首長国連邦の銀行口座に800万ドル(約9億円)を持っていたことが判明しましたが、このお金がどこに行ったかは不明です。

彼は西アフリカにホテルも購入しています。

 

この闇市場は、これまでに構築された核拡散の最も大きなネットワークでした。

その全貌は今日まで不明のままです。

カーン博士は、エジプト、サウジアラビア、シリアを含む少なくとも18か国を旅行しました。

カーン博士を殺害リストに載せたと信じられているCIAは、オサマ・ビンラーディン自身が博士との会議を手配するために使節を派遣したと考えていますが、このアプローチは拒絶された様です。

最後に暴かれた悪事は、リビアの独裁者カダフィとの取引でした。CIAは、ジハード主義者が核兵器を手にする可能性について懸念を深め、カーン博士のネットワークであるマレーシアの工場に侵入しました。

2003年後半に遠心分離機の部品をリビアに送ったとき、CIAのスパイはスエズ運河を航行する際に貨物を追跡し、イタリアに迂回させました。

アメリカの捜査官が彼がリビア政府に売った核爆弾の計画を手にしたとき、その計画書はイスラマバードのカーン氏の仕立て屋である「Good Looks Fabricsand Tailors」を宣伝するビニール袋に入っていました。

リビアの初期の核計画は潰されました。

2004年2月、彼はパキスタンのテレビに出演し、「無許可の拡散活動」を認め「誤った判断」だったと語りました。

 

パキスタン政府は、彼らが最も称賛する科学者(国の最高の民間人賞であるNishan-e-Imtiazの唯一二回受賞している)がそのような悪事を働いた事にショックを受けたと公言しました。

しかし、彼が10年以上にわたって国際的な核カルテルを運営し、贅沢な生活を送った事を、強力な軍隊が見過ごしたとはにわかに信じられません。

彼が亡くなったとき、首相のイムラン・カーンは彼を「国家の象徴」と讃えました。

2004年のインタビューで、彼の名誉は傷つきましたが、その名前が母国の学校や病院に掲げられるカーン氏は、単独で責任を追う事を撤回し、「私がパキスタンを核保有国にし、国を救った」と彼は自慢しています。

 

イスラエルの新聞、ハーレツが指摘したように、カーン氏は、核技術を世界中に広め、生き残った怪しげな実業家として記憶されるでしょう。

彼は、イスラエルの敵であるイランやリビアなどの国々が重要な核技術を習得するのを助け、モサドに暗殺されなかった数少ない科学者の一人です。

彼は新型コロナで亡くなりました。

驚くべき核技術の拡散

改めて彼の一生を振り返ってみると、相当危険な事にカーン博士が首を突っ込んでいる事に驚かされます。

イランや北朝鮮に核技術を渡し、イラクやリビアにも提供しようとしていたんですね。

ビン ラディンも博士にアプローチしていたのですから、アルカイダの様なテロ組織に核技術が渡っていたかもしれません。

核爆弾はないに越したことはないのですが、一方で、第二次世界大戦以降大国間の戦争が起きないのは、核の抑止力が効果を発揮している事も否定できない事実です。

しかし、独裁者が牛耳る国や狂信的なテロ組織などに核が渡れば、抑止力は効きません。

カーン博士の試みは間一髪のところで防ぐことができましたが、今後も核拡散の動きに各国は神経質な対応を迫られそうです。

 

最後まで読んで頂き、有り難うございました。