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ナザルバエフ氏のカザフ化政策に待ったをかけたプーチン氏

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カザフ騒乱の真の原因は

カザフスタンの騒乱はロシア軍の派遣をきっかけに、政権側が力で反政府派を鎮圧し、一件落着となりました。

結果として前大統領のナザルバエフ氏一派の力が弱まり、現職のトカエフ大統領がその地位を固めました。

ナザルバエフ大統領はつくづく後継としてトカエフ大統領を指名した事を後悔している筈です。

もう一人の候補だったマシモフ氏は国家安全保障委員会の議長職を解かれ、逮捕されてしまいました。

マシモフ氏はカザフ系ではなく、ウイグル系だった事が大統領になる上でネックになった様ですが、ここにもカザフスタンの人種構成の複雑さが現れています。

何故、国父とまで謳われたナザルバエフ氏がトカエフ大統領とプーチン氏のタッグの前に破れ去ったかを理解する上で、ナザルバエフ氏が大統領時代に行ったカザフ系住民に対する優遇策(言葉を換えれば、ロシア系住民に対する差別政策)を理解する必要があると思われます。

この点について英誌Economistが「How Kazakhstan became more Kazakh」(カザフスタンにカザフ系住民が増えた訳)と題した記事を掲載しました。

かいつまんでご紹介したいと思います。

Economist記事要約

多くの独裁者の様に、30年間カザフスタンを統治したナザルバエフ氏は自分を称える方法について多くのことを考えました。

この81歳の政治家は2019年に大統領を辞任した後も、舞台裏から糸を引こうとしましたが、不安と暴力で彩られた一月の政変の後、彼の後継者であるトカエフ大統領は、ナザルバエフ氏が構築した体制に幅広い変更を行う事となりました。

しかし、ナザルバエフ氏の遺産の一部を元に戻す事は簡単ではありません。

それは、彼が数十年の統治の間に試みた劇的な民族構成の変更です。

 

1991年にソビエト連邦が崩壊した時、カザフスタンは国名の由来となった民族が過半数を占めなかった唯一の旧ソビエト共和国でした。

カザフ系の民族は人口の40%弱でした。

ロシア系が37%を占めており、 他の少数派が残りを構成しました。

これはすべてスターリンの遺産でした。

1930年代の飢饉は、旧ソ連の人口の4分の1を殺し、彼は信頼していない民族グループをカザフスタンに強制移住させました。

 

カザフスタンが2021年の終わりに独立30周年を祝う時に、国勢調査はこの国が別の国になった事を明らかにしました。

カザフ系は現在、1900万人の国民の内、70%を占めています。

ロシア系はわずか18%に減少しました。

ロシア系住民の外国への移住とスラブ民族の出生率の低下がこの変化に貢献しました。

外国生まれのカザフ人にカザフへの移住を奨励するために設計された寛大な政府プログラムが大きな役割を果たし、独立以来約百万人のカザフ系民族がカザフに移住してきました。

ナザルバエフ氏は、国の人口構成が国家安全保障に対する脅威であると考えたため、1990年代にこのプログラムを開始しました。

そのように公然と話すことは、国内のロシア系住民とカザフスタンが7,600キロに及ぶ国境を共有するロシア政府の両方を疎外したでしょう。

 

現在、外国生まれのカザフ系住民は人口の6%を占めています。

多くの人々、特に他の旧ソビエト諸国からの人々は問題なく定住しました。

中国の新疆ウイグル自治区で反イスラムの弾圧からの避難を求めている中国生まれのカザフ人を含め、他の人々は文化、言語、政治に苦しんでいます。

彼らは、政府と中国との関係が民族の連帯に勝っていることを発見しました。

 

世界中の移民のように、彼らはまた、すでに国内にいる人々からの敵意に直面しています。

一部の市民は、外国生まれのカザフ人に対して提供される特典に憤慨しています。

そのような不満を和らげるために、国は指定された地域への移住を奨励しています。

それはロシアとの国境に沿った北部で、既に多くのロシア人が住んでいます。

表向きの目標は、労働力不足に取り組むことでしたが、秘められた目的はこれらの地域をより言語的および文化的にカザフ系にする事でした。

 

その目標は、プーチン大統領が2014年にクリミアを併合し、ロシア語を話す人々に対する弾圧を口実にしたことから、カザフスタン政府にとって実現が難しいものになりました。

ウクライナとの国境でのロシア軍が示す示威行動は、カザフスタンにおいても一部のロシア民族主義者が分離運動を主張していることをカザフ人に思い出させました。

トカエフ大統領の要請を受け、1月にカザフスタンに到着したロシア軍は、多くのカザフ人を心配させました。

 

一方、カザフスタン化はカザフスタン国民の30%を占める少数民族を怯えさせます。

彼らは、2020年北京語を話す中国系イスラム教徒のドンガン人に対する政府の鎮圧に恐怖を感じました。

カザフ化への努力と国家の調和を組み合わせようとしたナザルバエフ氏が現場を去った今、民族ナショナリズムが再燃するのではと懸念する人もいます。

前大統領にちなんで付けられた首都の新しい名前もすぐにアスタナに戻るかもしれません。

旧ソ連諸国の脱ロシアの動きに待ったをかけるプーチン氏

中央アジア諸国の自民族優遇策はカザフスタンだけではありません。

トルクメニスタンやウズベキスタンなどでも、ソ連からの独立後、現地語を公用語にしたり、ロシア系の人々を要職から遠ざける動きが強まりました。

この様な動きは社会に分裂を生じ、経済にも大きなダメージをもたらしました。

何せ旧ソ連時代は、この地域で社会を回す重要なポジションはロシア系の人材が占めていたからです。

工場においても役所においてもロシア系人材なしに仕事は回らない仕組みだったのです。

以前、トルクメニスタンの首都アシュガバットで私の運転手を務めていたのは、ロシア系の学者でした。

彼は元々トルクメニスタンで大学教授を務めていましたが、公職から追放された一人でした。

英語ができる事から私は彼を運転手として重宝していましたが、彼が当時のトルクメニスタン政府のトルクメン民族優遇策を厳しく批判していたのを思い出します。

彼の娘が、大学の奨学金試験で最優秀だったにも拘らず、下位のトルクメン系の学生がモスクワ大学に推薦された事を理不尽だと嘆いていました。

彼の娘はこの処置に失望し、父の元を離れロシアに移住してしまったそうです。

この様な悲劇が当時の中央アジアでは至る所で生じていたと思います。

プーチン氏はこの様な旧ソ連諸国で起きたロシア系住民の排斥や差別の動きに待ったをかけようとしているのかも知れません。

旧ソ連から独立した国々には、未だに多くのロシア系住民がいます。

カザフスタンは今回、ロシア軍の支援を要請しました。

ナゴルノ=カラバフ紛争の後、アルバニア政府はロシア軍の常駐を受け入れました。

ウクライナに単純に侵攻するというシナリオはプーチン氏の頭にないと思いますが、何らかの理由でウクライナ政府がロシアに支援を要請すれば別だと思われます。

 

最後まで読んで頂き、有り難うございました。