有史以来初めての軍事衝突
イランとイスラエルは最近お互いを攻撃しあいました。
この両国は昔から何度も戦火を交えてきたものと思っていましたが、実は今回の攻撃は有史始まって以来のものだった様です。
イラン人とユダヤ人との間には知られざる長い友好関係がある様です。
米誌Foreign Affairsが「The Shallow Roots of Iran’s War With Israel - Beneath Tehran’s Extremism, a Lost History of Deep Iranian-Jewish Ties」(イランとイスラエルの争いはごく最近の出来事。テヘランの過激主義の裏にはイラン人とユダヤ人の失われた深い過去の絆がある)と題した記事が掲載されました。
かいつまんでご紹介したいと思います。
Foreign Affaris記事要約
4月初旬、イランとイスラエルの冷戦は突如激化した。
ダマスカスでのイスラエルによる空爆でイラン革命防衛隊の司令官7人が死亡し、イランの指導者たちは相応の軍事的対応を迫られた。
結局、彼らは、 4月13日、300発以上のミサイルとドローンでイスラエルに大規模な空襲を仕掛けたが、これは見せかけの攻撃であり、この抑制された報復の後、敵対する二国間の間の関係は、驚くほど速やかに回復した。
この予想外に迅速な解決は、両国の間に興味深い背景がある事を示している。
まず、一般のイラン人はガザでの戦争にあまり関心を示していない。
イランはハマスの主な支援国ではあるが、政府がパレスチナの大義に対する熱意を喚起するのに苦労しているのは中東ではイランだけであり、ガザ問題に関するテヘランでのデモ参加者はわずか3,000人だった。
これには明らかな政治的理由がいくつかある。
まず、イラン国民がテヘランの指導部やイスラム主義全般に不満を抱いていることが挙げられる。
多くのイラン人は、ハマスの勝利を、自分たちを支配する抑圧的な聖職者政権の勝利とみなしている。
しかし、この戦争に対するイラン人の感情には、より深い社会的、文化的ルーツもある。
イスラム以前の時代には、歴代のペルシャ諸国はユダヤ人と驚くほど密接な関係を築いていた。
また、この親近感は1979年のイスラム革命で完全に終わったわけではない。
今世紀初頭まで、イランの指導者たちは中東におけるイスラエルの役割について驚く様な見解を示すことがあった。
今日、この遺産は双方の強硬派によって覆い隠されているが、ペルシャとユダヤ人の共存の長い歴史は、状況が変われば将来活用できる選択肢を提供してくれるかもしれない。
エルサレムを訪れると、通りの 1 つがペルシャ王にちなんで名付けられていることに驚かされる。
紀元前 6 世紀のキュロス大王は、ユダヤ人をバビロン捕囚から解放したことで有名である。
ユダヤ人が故郷に戻ることを許可した彼の決定の結果、ユダヤ人はイラン人に対し好感を抱き、それは古代のほとんどの期間にわたって続いた。
そんなイランでは、アラブ諸国とは異なり、1948 年のイスラエル建国は、ユダヤ人コミュニティに清算を強いることはなかった。
エジプト、イラク、リビア、シリアを席巻した反ユダヤ暴動とは対照的に、イスラエルへの大量脱出はなかった。
約 85,000 人のユダヤ人がイランに残り、イスラエル以外の中東で最大のユダヤ人コミュニティを構成していた。
アラブの指導者たちは、この新しいユダヤ人国家をアラブの土地を奪い、アラブ統一への脅威とみなしていたが、イランの政治家たちは、この国家を潜在的な同盟国とみなす傾向があった。
これは、1941年に即位した君主モハンマド・レザー(シャー)・パフラヴィーに特に当てはまった。
シャーは、アラブ諸国政府や自身の国内宗教支持層を敵に回すことを避けるため、イスラエルを公式に承認することは控えたが、経済発展や諜報活動での協力において、密かに緊密な関係を築いていった。
イスラエルの航空会社エル・アルはテヘランに週2回飛んでいた。
しかし、イスラエルを支持したのは王政だけではなかった。
イランの反体制派や革命思想家たちも、この新生ユダヤ国家に賞賛の念を抱いていた。
しかし、1979年にイスラム革命が起こった時、状況は一変した。
すぐに、イランで繁栄していたユダヤ人コミュニティは 2 万人ほどにまで減少した。
米国との関係と同様、イランとイスラエルの関係は急速に悪化した。
しかし、1980年9月に始まったイラン・イラク戦争において、イランはますます孤立していった。
アラブ諸国は当初からイラクの独裁者サダム・フセインを支持しており、形勢はイランにとって不利であった。
1980年代半ばまでに、イラン政府は国王から受け継いだ米国製の軍事装備品のスペアパーツは米国の制裁により不足していた。
その後、イラン・コントラ事件として知られる事件で、イラン政府はイスラエルからひそかに武器を調達し始めることを決めた。
レーガン政権とイスラエル政府は、イラン系ユダヤ人の武器商人ゴルバニファールの力を借りて、切望された武器を密かにイラン政府に提供することを提案したのだ。
秘密交渉がレバノンの新聞で暴露されると、イランはすぐに交渉を中止し、リークの報告元を処刑するまでに至った。
注目すべきは、イラン・コントラ協定でテヘランの交渉の主役だったと目されるのが、イラン議会議長ラフサンジャニだった事だ。
彼はホメイニの死後、1989年に大統領となった。実利主義者として広く知られるラフサンジャニは、革命の輸出に多くの革命仲間ほど関心がなく、イスラエルをイデオロギー的レンズよりも政治的レンズで見ていた。
しかし宗教指導者のハメネイが権威を確立するにつれ、ラフサンジャニの様な実利主義者は力を失っていった。
そしてイスラエル国家の排除は国家イデオロギーとなっていった。
政権の忠実な支持者は、その支持によって自らを他の者と区別し、さらにその姿勢を強めた。
言うまでもなく、これがイスラエルの強硬派の間で反イランの言説を助長し、敵意を深める負のスパイラルに入って行った。
課題は明らかである。
一方が他方の存在権を認めず、その消滅を煽動し、もう一方が歴史に対する無知に陥っている時に、両者の間で対話をどうやって生み出すのか。
もちろん、1つの方法は、ユダヤ人とイラン人の古代のつながりを利用することであり、イスラエル当局はテヘラン政府とイラン社会を区別することで、ある程度このアプローチを試みてきた。
しかし明るい見通しは開けていない。
イスラム共和国とイスラエル、そしてより広範なユダヤ人コミュニティとの関係から得られる教訓は、歴史には政治が多すぎるが、政治には歴史が足りないという事を示している。この不均衡が解消されない限り、意味のある進歩は望めない。
キュロス大王への恩返し
バビロン捕囚については世界史の授業で学んだ故事ですが、今でもユダヤ人は覚えているんですね。
彼らは古くから迫害を受けてきた民族ですので、良い事も悪い事も忘れません。
エルサレムの通りにキュロス大王の名前が残っていると言うのも驚きですが、イスラエルの切手にはキュロス大王の偉業を讃えたものもある様で、ヘブライ語だけでなくペルシャ語での記述もあるとの事です。
近代に入っても、イラン人とユダヤ人は共通の敵アラブ人に取り囲まれていると言う事もあり、友好関係を保ってきました。
それにしてもイランイラク戦争時にイランがイスラエルを通じて米国の装備品を密かに輸入していたとは驚きです。
上記記事には米国政府がイスラエル経由武器を輸出したと書かれていますが、Wikipediaに依れば、米国政府が承認する前からイスラエルは秘密裏にイランに米国や西側の武器を横流ししていた様です。
当時のイランの武器輸入の半分以上はイスラエルからだったと言われています。
イスラム革命以降のイランは西側の制裁により疲弊しました。
革命以前のテヘランは中東のパリと呼ばれ、多くの訪問客が訪れる国でしたが、今はその面影もありません。
トルコとイランは人口もほぼ同じくらいですが、資源は圧倒的にイランの方が豊かですので、国力ではイランが上回っていましたが、今は完全に逆転してしまいました。
イスラム革命が起きなければ、イランは全く別の国になっていた筈です。
中東では政府は親米、国民は反米といった国が殆どですが、イランは逆で政府は反米、国民は親米です。
米国の政策に大きな影響力を持つユダヤ人がいつかイランに恩返しをして、イランを普通の国に戻してくれればと思います。
両国とも強硬派が政権を牛耳っている状況下、その実現は容易ではありませんが・・・
最後まで読んで頂き有難うございました。