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フィンランド化って何?

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フィンランド航空の思い出

フィンランドといえば、白夜の国、サウナというイメージがありますが、訪れた方はあまり多くないと思います。

筆者は冷戦時代この国を頻繁に訪れました。(主にトランジットですが)

欧州諸国を訪れるには、ロシアの上空を飛ぶのが最も近道ですが、冷戦時代、西側の飛行機が上空を飛ぶ事をソ連が許さなかった為、アラスカのアンカレッ経由20時間近いフライトを余儀なくされていました。

そこへヘルシンキ経由のルートが加わり、一気に欧州へのフライトが短くなった事を覚えています。

その後、ソ連が西側の航空会社に上空を飛ぶ事を許す様になったので、ヘルシンキルートを利用することはなくなりましたが、随分フィンランド航空にはお世話になりました。

それでは何故フィンランド航空は西側航空会社に先駆けて、ソ連上空の通過権を得る事ができたのでしょうか。

それはフィンランドがコメコン(ソ連をリーダーとする東側諸国の経済協力同盟)にオブザーバーとして参加するなど、旧ソ連と深い関係を有していたという事実があります。

えー、フィンランドは西側の国ではないのかという疑問もあると思いますが、この国には隣国のロシアの圧力を巧妙に避けながら付き合ってきた歴史がある様です。

ウクライナ危機のさなか、英米のメディアの間ではFinlandization(フィンランド化)という言葉が誌面を飾る回数が増えてきました。

その一つ英誌Economistの「What is “Finlandisation”?」(​「フィンランド化」とは何ですか?)と題する記事をご紹介しましょう。

英誌Economist記事要約

ウクライナをめぐる危機により、西側の当局者は、ロシアの侵略を回避するための外交的な方法を模索するようになりました。

プーチン大統領との会談の為モスクワに向かう途上、フランスのマクロン大統領は、1つの解決策について尋ねられました。

それは、冷戦中のフィンランドの中立的な地位を指す「フィンランド化」でした。

それは「一つの選択肢だ。」とマクロン氏は認めましたが、 このニュースは、ウクライナだけでなくフィンランドでも怒りを引き起こしました。

フィンランドでは、その経験は良い思い出ではありませんでした。

ところで「フィンランド化」は実際にどのように機能したのでしょうか。

また、同様のステータスをウクライナに適用できるでしょうか。

 

冷戦の夜明け、ヨーロッパがアメリカとソ連に率いられた対立する東西ブロックに固まるにつれて、フィンランドは独特の地位を獲得しました。

第二次世界大戦中、この国はソ連の全面的な侵略に抵抗したものの、広大な領土を割譲し、賠償金を支払い、フィンランド共産党を合法化することを余儀なくされました。

戦後間もなく、この国は西側とのつながりがほとんどなく、東側の巨大な隣国に脅かされていました。

1948年にソ連と締結された条約が「フィンランド化」の基礎となりました。

フィンランドはその主権を維持し、超大国の対立において中立を維持し、NATOにもワルシャワ条約にも参加しませんでした

 

実際には、フィンランドの独立の代償は、ソ連が国の政治に大きな影響を与えるということでした。

冷戦を乗り越えたフィンランドのケッコネン大統領は、ソ連との友情を彼の外交の基礎としました。

彼はしばしば憲法上の権限を超え、腐敗したネットワークを確立し、ソ連が受け入れない閣僚人事をを拒否しました。

フィンランドのメディアは、ソビエトに批判的であると見なされる項目に関して定期的に検閲されました。

出版社のTammiは、1974年に圧力に屈し、ソビエトの反体制派であるソルジェニツィンの小説、「収容所群島」のフィンランド語訳を発表しませんでした。

 

フィンランドは外交政策に関するソ連の影響からも免れることはできませんでした。

1972年にEUの前身である欧州経済共同体と協定を締結した後、ソ連をなだめるために、フィンランドは1973年にオブザーバーとしてソ連主導のブロックであるコメコンにも加わりました。

1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春、1979年のアフガニスタンでのソ連の軍事介入の間でさえ、ソ連の内外政策を批判する事をフィンランド政府は禁止しました。

 

この様な制約にもかかわらず、フィンランドは繁栄しました。

彼らは強力な防衛能力を維持し、自由民主主義を維持しました。

冷戦の終結とともに、それは真に独立した外交政策を追求することができました。

1994年には、NATOの平和のためのパートナーシップに参加しました。

これは、完全な加盟国にはほど遠い防衛協力プログラムでしたが、1995年には、EUに加盟しました。

今日、ウクライナに対するロシアの攻撃的な姿勢により、フィンランドの指導者たちは西側とのより緊密な関係を検討するようになりました。

 

ウクライナ人にとって、「フィンランド化」はそれほど魅力的ではないようです。

プーチン氏の主な目標は、以前のフィンランドのように、ウクライナをNATOに参加させないことです。

彼はウクライナの主権を制限する事も要求しています。

ウクライナに反政府勢力が支配する東部地域に権力を移譲させることを要求したミンスク議定書の実施は、ロシアににその代理人を通じてウクライナ政治に直接手を差し伸べることを可能にします。

ウクライナは西側から重要な外交的および物質的な支援を受けていますが、他の点では、その立場は冷戦初期のフィンランドよりも弱いです。

その経済と政治は機能不全であり、ロシア軍とその代理人はすでにクリミアとドンバスのウクライナ領土を占領しています。

「フィンランド化」はロシアの侵略を回避することを可能にするかもしれませんが、ウクライナはロシアの支配下に置かれる事になるでしょう。

フィンランドのしたたかさ

筆者もこの機会にフィンランドの歴史を少し勉強したのですが、この国が如何に隣国の巨人ロシアとの関係に苦労してきたかを知り、驚きました。

フィンランドは第一次世界大戦中、ロシア革命でソ連が誕生した混乱をついて、ロシアからの独立を宣言します。

しかし、ソ連から強い圧力を受け続け、第二次世界大戦中は敵の敵は味方という理屈でドイツと組んでソ連と戦いました。

従って第二次世界大戦後は敗戦国扱いで、マーシャル基金等西側の経済援助は一切受けられませんでした。

しかし、フィンランドがこの時に独立を維持できたのは、戦争終結直前のフィンランド軍の奮戦により、ドイツ降伏前にソ連と休戦条約を締結できたからでした。

そうでなければ、バルト三国の様にソ連に併合されていたでしょう。

その後は、経済的には市場経済を取り入れる一方で、ソ連を刺激しない様、コメコンにオブザーバーとして参加し、ソ連の批判を国内で封印しました。

いやはや大変な神経の使い方だと思います。

現在、フィンランドは世界幸福度レポートで高いランキングを誇り、携帯で一世を風靡したノキアを生むなど起業大国としても知られています。

この繁栄の裏には、ロシアの圧力をかわし続けた巧みな政治外交があったという事だと思います。

ウクライナにとってフィンランドは良いお手本になると思いますが、ウクライナのフィンランド化はかなり難しいと思います。

フィンランドの様になるためには、経済の自立、高潔で機能する政治が必要ですが、そのいずれもウクライナには残念ながら欠けています。

更に言えば、フィンランドは過去にロシアと敢然と戦い、勝利を収めた経験があります。

山椒は小粒でもぴりりと辛いところを見せないと独立は守れないと言う事でしょう。

 

最後まで読んで頂き、有り難うございました。