国際的デザイナーである山本寛斎さんが先日死去されました。
寛斎さんの訃報は、世界中を瞬くまに駆け巡りました。
英国のBBC他多くの外国報道機関が追悼記事を流しましたが、今日はファッションの本場フランスのル モンドの記事を取り上げたいと思います。
ル モンド紙記事要約
モード界のパイオニアである山本寛斎氏白血病で死去
山本寛斎はそれまでの常識を覆した思い切った色使いとエッジの効いたデザインで知られています。
歌手のデビッド ボウイとの仕事で広く称賛されていますが、彼自身も「デビッドの美学と性別を超えた美しくあろうという熱意に影響を受けた。」と語っています。
彼の作品には日本をモチーフとしたものが多く発見されます。デビッド ボウイの服には漢字が使われていますし、ルイ ヴィトンとのコラボでは歌舞伎がモチーフとして使われました。
彼の大胆な色使いと目を引くモチーフは、シンプルなデザインが多い日本のデザイナーの中で異色の存在ですが、彼はこれを日本の侍の型破りな美学の感性に基づいていると主張しています。
彼の人生は決して平坦なものではありませんでした。
彼の明るい色使いと幼年期の彼の人生は対照的なものでした。
両親の離婚に伴い、彼は7歳の時に父親に引き取られますが、父親の養育放棄により、児童養護施設に収容されています。
彼は1971年に、ロンドンコレクションに日本人デザイナーとして初めて参加し、成功を収めましたが、元々彼に冷淡だったパリコレクションでは苦労しました。
しかし、最後に彼は成功を収めました。成功の鍵は彼のモットーである「挑戦し続ける」事でした。
彼は終生このモットーを実践しました。
2018年に彼は北極探検を宣言しました。
この夢は白血病発症のため、断念せざるを得ませんでしたが「いかなる人生も良いことばかりではない。私も厳しい時期を生きてきた。困難を乗り越えた時の喜びはそれだけに大きい。」と語っています。
寛斎さんの実像
フランスを代表する新聞ル モンドも称賛する寛斎さんですが、彼の実像はどうだったのでしょうか。
娘の山本未来さんは自身のインスタグラムで、次の様に述べています。
「父、山本寛斎は去る7月21日、私を含め家族が看取る中、安らかに76歳にてこの世を旅立ちました」
「私にとって、父はエネルギッシュで明るいことはもとより、穏やかで、寛大で、人懐っこく、コミュニケーションを大切にし、無償の愛を与えてくれた存在でした。また人生を通して『時に折れることがあろうと、常に前向きに、果敢に挑戦し続けることが明るい未来に繋がる』ということを教えてくれました」
「生前中の父・山本寛斎と関わってくださった関係者の皆さま、医療関係者の皆さま、応援してくださった皆さまへ心より感謝を申し上げます」
自身の辛い幼年期の経験をテコに、常に前向きのエネルギーに変えて、周りを明るく照らし続けた寛斎さんの素顔が窺えます。
寛斎さんが駆け出しの頃師事したコシノ ジュンコさんも談話を発表しています。
「世の中が落ち込んでいるこのようなときに、元気印の寛斎さんがいなくなると日本はより暗くなります。残念です」
寛斎さんの功績
彼は単身ロンドンに渡り、日本人として初めてロンドンコレクションに参加しています。
寛斎さんの後を追って、多くの日本人デザイナーが海の向こうに渡って行きました。
パイオニアとして先鞭をつけた寛斎さんの功績は非常に大きいと思います。
彼は最近、イベントプロデューサーとして世界各国で活躍していました。
この国際的なイベントプロデューサーという仕事も、日本人としては彼が切り開いたものだと思います。
今の日本の社会で、最も求められているのは、彼の様に他に先駆けて世界にチャレンジし、困難があっても挑戦し続けていく姿勢だっただけに、惜しまれます。
実は、私もイスタンブールに駐在していた頃、寛斎さんがプロデューサーとして指揮をとった「Helloイスタンブール」という日本トルコ外交樹立90周年を祝うイベントに関与しました。
その際、寛斎さんと親しくお話をさせて頂く機会があったのですが、70歳を超えたとはとても思えないエネルギーと、暗い場を一気に変えるあの明るい笑顔に圧倒されました。
一方で、イベントを支えた裏方を含めた全ての人への細かい配慮が印象的でした。
イベントが終わった後、イスタンブールの私のオフィスに彼直筆の色紙が送られてきました。デザイナーらしいカラフルな色紙は我が家の家宝となっています。
寛斎さん、全力で駆け抜けた一生だったと思います。謹んでご冥福をお祈りします。
最後まで読んで頂き、有り難うございました。